どうも。すみっコぐらしが好きでそれにちなんだ名前をを付けさせてもらいます。スミチょです。
今回は、タイトルにもある通り私自身が23歳で大学に入り直した訳を時系列順に大まかに紹介していきたいと思います。そのときそれぞれの詳しい話はまた後日に書けたらいいなと思っています。
それでは、行きましょう。
~辛かった2018年度~
高校を出た後は地元に近い地方の大学に現役で入学することになる。一応高校時代は自称進学校とはいえトップのほうの成績だったため指定校で自分が通うことになる大学よりもネームバリューが上の大学に行く人達が羨ましくて仕方がなかった。自称進学校は割と実績のためか成績上位層が指定校推薦を利用することを嫌い、成績が中程度の人たちにその枠を配れ的な風潮や指針が強いように感じる。これくらいならまだしも、自分が指定校で上位私立大学の枠を意地でもゲットしなかったことは今でも少し悔やんでいる。話が少し脱線したが、すこしあったコンプレックスなどで無気力になった自分は大学生になる準備が整わないまま入学式を迎えてしまう。
そしてここで事件が発生する。ふとしたことがきっかけで、この先の人生をめちゃくちゃにしてしまう精神疾患である重い強迫性障害を発症してしまった。どんな症状なのかは書ける時に書こうと思うが、このおかげで外出が大変苦痛になりおまけに友達からは不審がられるように… それでも大学の学期で前期はフル単でこなし後期に突入することになった。ちなみに強迫性障害といった強烈な悪条件が重なりながらも幸運にもよき友に巡り合ったり、夏休みまでは積極的にサークル活動にも参加していた。しかし心のどこかではこのままこんな生活を送っててはダメだし、強迫性障害とともにして大学の前期をすでに過ごしてしまったことをもう後悔してた。(早すぎだろ…笑)
そこで、私は後学期開始直前の9月末に10月からはこの強迫性障害を改善させ自力で直していくように意識や行動を変えようと努力することを決意した。しかし、世の中は甘くなかった。周りが自分が直せるように動いてくれるならいいが、道歩く人から見れば自分はただの人間。容赦なく知らない人たちは嫌な音を出したり、光景を醸し出したりしてくる場合もある。運よくそういった場面に出くわさなかったとしても今度は今まで普通に思えてたことが許容できなくなってくる。どんどん自分が思う居心地が良いの基準が上がっていき、とても生きずらくなってしまった。決意したのにも関わらず怖いことだらけで先に進めなかった。治療になると思い込んでいた間違った自己流の認知行動療法で症状が一気に加速してしまったような気がする。
12月になると限界で親に連絡を入れて助けを求めた。この時の私は辛くて辛くて大学どころではなく休みがちになったが、ペアで行うことになっていた実験の授業は相手に迷惑をかけまいと出席した。(実験中も不審な行動をしたり怖さでできないことも多くありサボってると良く勘違いされた。)
1月末には心配していた親が自分を一人暮らししていたアパートから実家に帰らせた。限界だった自分は休学を申し出て親も納得したようだったので、病院に行って診断書をもらって2019年度からは休学することになった。
しかし本当の地獄はここからだった。
地獄の2019年度
大学のことは考えなくて済むし、やっと自由の身でこれからの人生設計をゆっくり考えていける!!そう思えたのはほんの一瞬だった。実家の部屋(正確には広いロフト)にこもったのが良くなかったのだろうか、わずかな期間だけ居心地がよくなったがほとんど横になっていたため症状がますます悪化。起き上がることにすら耐性がなくなり大きな抵抗感や不快感を感じ、通院を拒むようになった。実家での強迫性障害による巻き込みや行為がエスカレートし親も兄弟も手が付けられなくなっていたと思う。
あるとき体が凝ったので態勢をうつぶせに変えたらそれ以降、態勢を変えることすら億劫になり本当に動かなくなった。(他にも辛かったことやいろんな制約や自分の状態、そして家族にかけた迷惑などたくさんありますが、とても書ききれないので今は割愛させてください。)まさに、想像を絶するスーパーハイパーウルトラアルティメット(笑)な地獄だった。体の辛さより自分のこだわりみたいなものを優先していたのだ。
そんなこんなの生活を続けて約7か月、いよいよ体が最後の叫びをあげ、ガタが来てしまった。もうこのままじゃ生命の危険であると悟った私はついに病院に行くことを受け入れた。
しかし、通院予定の朝、体が動かない。それもそのはず、7か月もほぼ微動だにしなかったもの。やっとの思いで地べたを張って動いてみたがその時意識がなくなってしまった。目が覚めた時には、何かがおかしいことにも気が付いた。なんとロフトの階段を滑り落ちていた。それを親に発見された私は病院に親の車で搬送され精神科での入院生活がスタートした。
この入院生活がまたクソだった。侮辱するようなモラハラだったり、無理やり体を掴んで動かそうとするなどのパワハラだったりと。とにかくハラスメントの温床だった。(精神科病棟はどこもそんな感じなのかな…?)
この入院生活を3か月以上耐えようやく退院となった。症状も結構コントロールできるようになったし部屋も変えた。しかし、まだまだ復学できるようではなかったため休学をまた延長した。
ようやく、かつての普通な自分にもどりつつあった。
暇な2020年度
やっと、今度こそ自分の人生について考え直せる。そう思えた。だが、久々に触るケータイや自由に動き回れることが楽しすぎて退院後の4か月間はホントに何もしなかった。でも、そんなあるときsnsなどで元同級生たちの活躍を目にして「このままではいけないし納得のいく人生は送れないかもしれない。だから再び動き出すのは今だ!!」と情熱的になりその時自分は、「後悔だらけの大学生活をもう1度やり直したい。そして様々なことにチャレンジして新たな発見や気づきを大切にしていきたい」という理由で再受験を決意した。
何とか親を説得して再受験の許可を得た。このとき実質3浪。この年で決めるつもりはなかったが5教科7科目フル型の理系は間に合いそうになかったので、文転し志望校を大阪府立大学のマネジメント学類にした。しかし、休学し宅浪状態となっていた私に大した勉強に対するモチベは上がらずに暇人となり実質ニート。各地に旅行も行ったりしてた。ちょうどこの時、共通テスト初年度ということもあってそれ用の参考書はいろいろ買ったりした。
2021年度の共通テストの結果は文系型で62%くらい。簡単な年であったとはいえ自分では勉強量の割にはよく取れたと思った。共テリサーチはE判定だったが。練習のため受験。結果は不合格。しかし、本番を体験できたことは大きかった。そしてさらに休学の延長を認められた。
こうして、2020年度は幕を閉じる。
迷える2021年度
共通テストの結果から、自分はやっぱり理科が得意であり理系なのではと悟った自分は理転した。つまり文転して理転したのである。
いろいろと進みたい方向やなりたい自分に迷った時期でもあったが、受からなきゃいけないことに変わりはなかったので共テ対策問題集をいっぱい買っていっぱい演習した。しかし、しょせん独学。あまり成績は伸びず共テも難化し54%くらいの結果だった。自分は本当は勉強に向いてないのではと思い消えたくなったが受かるまで浪人してやると腹をくくり、今度は岐阜大学工学部を受験。2次はそこそこ行けたと思ったが高倍率のためか、またもや不合格。
こうして再び、現役で入学した大学を復学するか、休学するか。退学するかの選択肢に直面することになった。 もう大学に戻る気はなかったのと、新しい環境で最初からやり直したかったのとで私は退学を選択した。 そして、2022年度からは予備校に通わせてもらえることになった。
浪人として自覚した2022年度
この年から私は、河合塾にお世話になることになる。新幹線で毎日通学することになり、ちょっと前までは考えられなかった生活に少し充実感を覚えていた。わかりやすい講師の授業や面白く興味を引く話に感動したのを覚えている。余談だが河合塾は大学受験に対して大変素晴らしいサポートシステムであると思う。だが、その分今年で決めなきゃというプレッシャーも当然あった。すでに、23歳であったことを考えるともたもたしてられなかった。ただ、自習室をあまり活用しなかったり、講師室に出向いて積極的に質問できなかったことは反省すべき点であった。
予備校内で友達はできなかったが切磋琢磨しあえる優秀な仲間と同じ授業を聞けるのはいい刺激になった。
2023年の共通テストの結果は約63%。 勉強量の割にあまり上がってない成績にひどく落ち込んだ。なんでだろうか? 自分を強く疑った。 でも大学に行きたい思いは揺るがなかった。そのため後悔の内容に第一志望の首都圏にある国公立大学にリサーチはE判定であったが記述模試のA判定を信じて出願。2次も結構難化し手ごたえが全くなかったが結果は合格。
これでやっと大学生になれる。 そう思え5年遅れの大学生活を再始動させることになったのである。
最後に
時系列に書くつもりがなんかハチャメチャになった感があり、申し訳なく思う。つたない文章で最後まで読んでくださってる方がいるか不明ではあるが結論、目標や希望をもって生きていくことができてよかったと思う。大きな回り道をしてこの生き方に賛否両論あると思うが人生まだまだこれからだと思うし、どうせこの自分に強迫性障害という病が降りかかってきた以上、安定した理想の生き方はできないからこっちもお前(病に対して)メチャクチャにしてやり返してやるという感じでやっています 。
生きている以上、何かの行動を起こすきっかけが存在するので、そういった時間の一瞬一瞬を大切にしていけるような人になりたいと我ながら思うし、皆さんもそうしていただけたらなと5年のブランクを通して感じた。
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